日語閱讀:狂人日記(二)
八
実際この種の道理は今になってみると、彼等もわかり切っているのだ。
ひょっくり一人の男が來た。年頃は二十前後で、人相はあまりハッキリしていないが、顔じゅうに笑いを浮べてわたしに向ってお辭儀をした。彼の笑いは本當の笑いとは見えない。わたしは訊いてみた。
「人食いの仕事は旨く行ったかね」
彼はやっぱり笑いながら話した。
「餓饉年じゃあるまいし、人を食うことなど出來やしません」
わたしは彼が仲間であることにすぐに気がついた。人を食うのを喜ぶのだろうと思うと、勇気百倍して無理にも訊いてやろうと思う。
「うまく行ったかえ」
「そんなことを訊いてどうするんだ。お前は本統(ほんとう)にわかるのかね。冗當を言っているんじゃないかな。きょうは大層いい天気だよ」
天気もいいし月も明るい。だが乃公はお前に訊くつもりだ。
「うまく行ったかえ」
彼はいけないと思っているのだろう。あいまいの返辭をした。
「いけ……」
「いけない? あいつ等はもう食ってしまったんだろう」
「ありもしないこと」
「ありもしないこと? 狼村(ろうそん)では現在食べているし、本にもちゃんと書いてある。出來立てのほやほやだ」
彼は顔色を変えて鉄のように青くなり目を(みは)って言った。
「あるかもしれないが、まあそんなものさ……」
「まあそんなものだ。じゃ旨く行ったんだね」
「わたしはお前とそんな話をするのはいやだ。どうしてもお前は間違っている。話をすればするほど間違って來る」
わたしは跳び上って眼を開けると、體じゅうが汗びっしょりになり、その人の姿は見えない。年頃はわたしのアニキよりもずっと若いがこいつはテッキリ仲間の一人に違いない。きっと彼等の親達が彼に教えて、そうしてまた彼の子供に伝えるのだろう。だから小さな子供等が皆憎らしげにわたしを見る。
九
自分で人を食えば、人から食われる恐れがあるので、皆疑い深い目付をして顔と顔と覗き合う。この心さえ除き去れば安心して仕事が出來、道を歩いても飯を食っても睡眠しても、何と朗らかなものであろう。ただこの一本の閾(しきい)、一つの関所があればこそ、彼らは親子、兄弟、夫婦、朋友、師弟、仇敵、各々相識(し)らざる者までも皆一団にかたまって、互に勧め合い互に牽制し合い、死んでもこの一歩を跨ぎ去ろうとはしない。
一〇
朝早くアニキの所へ行ってみると、彼は堂門の外で空を眺めていた。わたしは彼の後ろから近寄って門前に立ち塞がり、いとも靜かにいとも親しげに彼に向って言った。
「兄さん、わたしはあなたに言いたいことがある」
「お前、言ってごらん」
彼は顔をこちらに向けて頭を動かした。
「わたしは二つ三つ話をすればいいのだが、旨く言い出せるかしら。兄さん、大抵初めの野蠻人は皆人を食っていた。後になると心の持方が違って來て、中には人を食わぬ者もあり、その人達は質(たち)のいい方で人間に成り変り、真の人間に成り変った。またある者は蟲ケラ同様にいつまでも人を食っていた。またある者は魚鳥や猿に変化し、それから人間に成り変った。またある者は善いことをしようとは思わず、今でもやはり蟲ケラだ。この人を食う人達は人を食わぬ人達に比べてみると、いかにも忌わしい愧(は)ずべき者ではないか。おそらく蟲ケラが猿に劣るよりももっと甚だしい。
易牙(えきが)が彼の子供を蒸して桀紂(けっちゅう)に食わせたのはずっと昔のことで誰だってよくわからぬが、盤古が天地を開闢(かいびゃく)してから、ずっと易牙の時代まで子供を食い続け、易牙の子からずっと徐錫林(じょしゃくりん)まで、徐錫林から狼村で捉まった男までずっと食い続けて來たのかもしれない。去年も城內で犯人が殺されると、癆癥(ろうしょう)病みの人が彼の血を饅頭に(ひた)して食った。
あの人達がわたしを食おうとすれば、全くあなた一人では法返しがつくまい。しかし何も向うへ行って仲間入をしなければならぬということはあるまい。あの人達がわたしを食えばあなたもまた食われる。結局仲間同志の食い合いだ。けれどちょっと方針を変えてこの場ですぐに改めれば、人々は太平無事で、たとい今までの仕來(しきた)りがどうあろうとも、わたしどもは今日(こんにち)特別の改良をすることが出來る。なに、出來ないと被仰(おっしゃる)るのか。兄さん、あなたがやればきっと出來ると思う。こないだ小作人が減租を要求した時、あなたが出來ないと撥ねつけたように」
最初彼はただ冷笑するのみであったが、まもなく眼が気味悪く光って來て、彼等の秘密を説き破った頃には顔じゅうが真青になった。表門の外には大勢の人が立っていて、趙貴翁と彼の犬もその中に交って皆恐る恐る近寄って來た。ある者は顔を見られぬように頬かぶりをしていたようでもあった。ある者はやはりいつもの青面(あおづら)で出歯(でっぱ)を抑えて笑っていた。わたしは彼等が皆一つ仲間の食人種であることを知っているが、彼等の考(かんがえ)が皆一様でないことも知っている。その一種は昔からの仕來りで人を食っても構わないと思っている者で、他の一種は人を食ってはいけないと知りながら、やはり食いたいと思っている者である。彼等は他人に説破されることを恐れているのでわたしの話を聞くとますます腹を立て口を尖らせて冷笑している。
この時アニキはたちまち兇相を現わし、大喝一聲した。
「皆出て行け、気狂(きちがい)を見て何が面白い」
同時にわたしは彼等の巧妙な手段を悟った。彼等は改心しないばかりか、すでに用心深く手配して気狂という名をわたしにかぶせ、いずれわたしを食べる時に無事に辻褄を合せるつもりだ。衆(みな)が一人の悪人を食った小作人の話もまさにこの方法で、これこそ彼等の常用手段だ。
陳老五は憤々(ぷんぷん)しながらやって來た。どんなにわたしの口を抑えようが、わたしはどこまでも言ってやる。
「お前達は改心せよ。真心から改心せよ。ウン、解ったか。人を食う人は將來世の中に容れられず、生きてゆかれるはずがない。お前達が改心せずにいれば、自分もまた食い盡されてしまう。仲間が殖(ふ)えれば殖えるほど本當の人間に依って滅亡されてしまう。猟師が、狼を狩り盡すように――蟲ケラ同様に」
彼等は皆陳老五に追払われてしまった。陳老五はわたしに勧めて部屋に帰らせた。部屋の中は真暗で橫梁(よこはり)と椽木(たるき)が頭の上で震えていた。しばらく震えているうちに、大(おおい)に持上ってわたしの身體の上に堆積した。
何という重みだろう。撥ね返すことも出來ない。彼等の考は、わたしが死ねばいいと思っているのだ。わたしはこの重みが(うそ)であることを知っているから、押除(おしの)けると、身體中の汗が出た。しかしどこまでも言ってやる。
「お前はすぐに改心しろ、真心から改心しろ、ウン解ったか。人を食う奴は將來容れられるはずがない」
一一
太陽も出ない。門も開かない。毎日二度の御飯だ。
わたしは箸をひねってアニキの事を想い出した。解った。妹の死んだ訳も全く彼だ。あの時妹はようやく五歳になったばかり、そのいじらしい可愛らしい様子は今も眼の前にある。母親は泣き続けていると、彼は母親に勧めて、泣いちゃいけないと言ったのは、大方自分で食ったので、泣き出されたら多少気の毒にもなる。しかし果して気の毒に思うかしら……
妹はアニキに食われた。母は妹が無くなったことを知っている。わたしはまあ知らないことにしておこう。
母も知ってるに違いない。が泣いた時には何にも言わない。大方當り前だと思っているのだろう。そこで想い出したが、わたしが四五歳の時、堂前に涼んでいるとアニキが言った。親の病には、子たる者は自ら一片(ひときれ)の肉を切取ってそれを煮て、親に食わせるのが好(よ)き人というべきだ。母もそうしちゃいけないとは言わなかった。一片食えばだんだんどっさり食うものだ。けれどあの日の泣き方は今想い出しても、人の悲しみを催す。これはまったく奇妙なことだ。
一二
想像することも出來ない。
四千年來、時々人を食う地方が今ようやくわかった。わたしも永年(ながねん)その中に交っていたのだ。アニキが家政のキリモリしていた時に、ちょうど妹が死んだ。彼はそっとお菜の中に交ぜて、わたしどもに食わせた事がないとも限らん。
わたしは知らぬままに何ほどか妹の肉を食わない事がないとも限らん。現在いよいよ乃公の番が來たんだ……
四千年間、人食いの歴史があるとは、初めわたしは知らなかったが、今わかった。真の人間は見出し難い。
一三
人を食わずにいる子供は、あるいはあるかもしれない。
救えよ救え。子供……
[1][2]
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