日語閱讀:籠釣瓶12
十二
八橋は栄之丞に噓をついていたので、自分の座敷にきょう來ている客は、やはり次郎左衛門であった。彼女はいくら自分の方から親切を運んでも、それを歓んで受け入れてくれないばかりか、むしろいろいろの口実を作り設けて、なるべく自分から遠く離れようとしている栄之丞がこのごろの態度に就いて、初めは堪え切れない恨みをいだいた。
「そうした義理じゃあござんすまいに、栄之丞さんも隨分不実な人でありんすね」などと、新造の掛橋や浮橋もそばから煽(あお)った。八橋はいよいよ口惜(くや)しくなった。しかし彼女は人形(ひとがた)をあぶったり、玉子に針を刺したりして、薄情の男を呪い殺すよりも、いっそこっちから彼を突き放してしまう方が優(ま)しだと考えた。彼に対する面當てに、自分のからだを次郎左衛門に売り渡してしまおうと決心した。
八橋はそれを次郎左衛門に頼んで、次郎左衛門も承知した。その以來彼女は努めて栄之丞のことを思うまいと念じていた。次郎左衛門の見る前で手ずから焼き捨てた起請と共に、むかしの戀は冷たい灰になったものと諦めようとしていた。栄之丞がきょう思いがけなく訪ねて來たというのを聞いた時に、彼女は逢うまいかと躊躇した。
逢うまい。いつまでも打っちゃって置いて焦(じ)らしてやれ。そうして、今まで焦らされていたこっちの身の苦しさを思い知らしてやれと、彼女はいつまでも次郎左衛門のそばを離れなかった。彼女は名代部屋にぼんやりと待ち侘びている男の寂しそうな顔を頭に描きながら、それを下物(さかな)にこころよく酒を飲んでいた。しかし、茶屋の女の催促を受けては、茶屋に対する義理として彼女も顔出しをしない訳にはゆかなくなったので、渋々ここへ來て見ると、栄之丞の口から思いも寄らない秘密を聞かされた。
次郎左衛門の身代(しんだい)はもう潰れている。それを聞いた時に彼女は実に驚いた。何かの子細があって栄之丞が自分を欺すのではないかと一旦は疑った。しかしいつかの晩、治六がふと口走った身請けの話とその金高の符合していることを思い合わせると、栄之丞の話も噓ではないらしく思われた。次郎左衛門がもうきのうの大盡でないことも大抵想像された。
相手のおちぶれたのも仕方がない。自分はおちぶれた男を見捨てるほどの薄情な女でもないと、彼女は自分でも思っていた。現に今でも栄之丞を貢(みつ)いでいた。しかしそれは相手にも因ることで、いかに不実な男に対する面當てでも、彼女は無宿同様の次郎左衛門に付きまとって居ようとは思わなかった。彼女は影の薄れた佐野の大盡の袖には取り付きたくなかった。
思い切ろうとした栄之丞は、呼びもしないのに向うから來た。取りすがろうとした次郎左衛門は足もとのぐらついているのが今判った。すべての事が自分の考えと食い違って來たので、八橋はちょっと見當がつかなくなった。
「そうして、その話をしに來なんしたからは、主(ぬし)はわたしを佐野へやる気でおざんすかえ」と、八橋は栄之丞の性根を試すように訊いた。
「男が恥を打明けて頼むのだ。わたしも忌(いや)とは言われなくなった。あの人のことだから、いったん言い出したら忌といっても承知しまい。あの人の目付きを見ろ」と、栄之丞は少しおびえたように言った。
男の弱いのが八橋の眼にはおかしいように思われた。他人(ひと)におどされて、言い交した女をむざむざと投げ出してしまうとは、あんまり意気地がないと、彼女はおかしいのを通り越して腹立たしくもなった。それでも彼女はまだ栄之丞に未練があった。男の弱いのがなんだかいじらしくもなって來た。それと同時に、その弱い男を一種の力づくで押しつけて、無理に自分をもぎ取って行こうとする次郎左衛門の橫暴な処置にも強い反感をもつようになった。
自分の方から頼んだ身請けの相談ではあるが、こうなると八橋も考えなければならなかった。第一には宿無しの次郎左衛門に自分のからだを任せたくはなかった。それも自分の前で正直にそれを白狀することか、蔭へ廻って弱い者をおどしつけて、腕づくで自分を安く買い取って行こうとする。どう考えても卑しい穢(きたな)い、男らしくない仕方だと彼女は思った。八橋はもう次郎左衛門にも愛想をつかしてしまった。
「そんなことは直ぐに返事も挨拶もなりんすまい。まあ、よく考えさせておくんなんし」と、彼女はともかくもそう言って置いた。
「急ぐこともあるまい。まあ考えて置いてくれ」と、栄之丞も言った。久し振りでこう差しむかいになって見ると、彼にもさすがに未練はあった。
ひとには瑕(きず)のように見える細い眼、あまりに子供らしい下(しも)ぶくれの頬、それもこれも、栄之丞の眼には又となく可愛らしく映ったこともあった。その昔の懐かしい思いを今更のように誘い出されて、この若々しい顔の持ち主を人手に渡すのが彼は急に惜しくもなった。栄之丞は飲めもしない杯を手にして、八橋の白い橫顔をうっとりと見つめていた。
「ぬしはこの頃なぜちっとも寄り付きなんせん。わたしというものに愛想がつきなんしたかえ」と、八橋の方でも男の顔を覗きながらまた訊(き)いた。
「愛想がつきたというじゃあないが、あんまり近寄るとお互いのためになるまいと思うからだ」
「なぜお互いのためになりんせんえ」
「身請けの相談などが始まろうという時に、私たちがしげしげ逢うのはよくない」
「噓をつきなんし。その相談の始まらない遠い昔から、ちっとも寄り付かないじゃありいせんか。ぬしにはたんと恨みがおざんす」
いっそ突き放してしまおうと思い切ってしまった男でも、さてこうして顔を見合せると八橋も十分に強いことは言えなかった。未練は栄之丞ばかりでない、彼女も軽率に起請を焼いてしまった自分の短気を咎めたくなった。
「久しくたよりを聞きなんせんが、妹御さんはお達者でおすかえ」
「お光は橋場の方へ奉公にやった」
「奉公に……。さぞ辛いこっておざんしょうに……。よく辛抱していなんすね」
八橋とお光とは仲好しであった。彼女はわが身に引きくらべて、奉公にやられたお光の身の上に同情した。
「なに、奉公といっても楽なものだ」
栄之丞は第二の相談を持ち出す機會を得たので、奉公早々にお光が災難に逢ったことを話した。それがために二十両の半金を償わなければならない事情も話した。
「どうかして都合してやらないと、わたしも義理が悪いし、お光も居づらいだろうと思っているのだが、どうもその十両の工面ができないので困っている」
顔を陰らせて八橋も聴いていたが、金の話になって彼女は案外にたやすく受け合った。
「お光さんも可哀そうに……。さぞ苦労していなんしょう。ちょいとお待ちなんし」
彼女は裳(すそ)を捌(さば)いてすっと起った。次の間へ出て、出入りの障子を明けようとすると、出合いがしらに人がはいって來た。それは次郎左衛門であった。
「あれ……」
驚いた八橋を押し戻すようにして、次郎左衛門は一緒に座敷へはいった。
さっき浮橋が來て八橋にささやいていた様子といい、あとからまた茶屋の女が催促に來て同じく八橋に何かささやいている様子を見て、次郎左衛門はそれがどうも普通の客らしくないことを直感した。普通の客でないとすれば、それが栄之丞ではないかという疑いが直ぐにまた彼の胸に泛(う)かんだ。あいつ、何しに來たかと、次郎左衛門もやがて後からそっと出て、障子の外に忍んで二人の対話を聞いていた。
佐野の身代のつぶれたことが栄之丞の口から出た。それは単に栄之丞と自分との間にのみ保たれているべき筈の秘密で、それを遠慮なく八橋の前にさらけ出されようとは思っていなかった。いっそ思い切って打明けようとしながらも、きょうまで徒(いたず)らにぐずぐずしていた自分の仕方も男らしくないが、ひとの秘密を無遠慮にすっぱ抜く栄之丞のきょうの仕方は、いよいよ男らしくないと思われた。その夜自分を闇撃ちにしようとしたのも恐らく栄之丞であろうとは思いながら、今までは確かな証拠もなかったが、きょうの話の様子を見るとまさしく彼に相違ない。うわべはおとなしく素直に受け合って置きながら、陰(かげ)へ廻って執念ぶかく他に祟(たた)ろうという彼は、まるで蛇のような奴である。蛇ならば蛇でいい、おれが踏み殺してやると、次郎左衛門は抑え切れない憤りの胸を畳んで、つかつかとここへ踏ん込んで來たのであった。
「栄之丞さん。このあいだは失禮をいたしました」と、次郎左衛門は彼のそばへむず[#「むず」に傍點]と坐って、まず挨拶した。
思いがけなく次郎左衛門に出られて、栄之丞も少しあわてた。居住居(いずまい)を直して、ともかくも一と通りの挨拶をした。
「まあ、ここではお話もできません。なにしろわたくしの座敷へ……」
無理に誘われて栄之丞も仕方なしに座を起って行った。八橋もあとにつづいた。
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